これまでの治療/4つの病名について

丸岡さんの著書を読んだ。

とても読みやすかった。

彼女のうつの治療のポイントとして、

・うつを受け入れる

・薬をきちんと飲む

・自然と触れる

・周囲の理解とサポート

などが書かれていたけれど、

私の場合は、「うつ」は最初から受け入れていたし、病気に対して恥の気持ちは全くなかった。そのため薬も医者に言われる通りしっかり服用していた。効果を実感したことは結局なかったが。周囲の理解とサポートはほぼなかった。唯一カウンセラーさんだけだ。身近な人からのサポートはなかった。詳しくは下記に述べる。

 

①病名宣告について

きちんと病名を聞いたことはない。「うつ状態」ですね、と最初の医者に言われただけだった。

うつの人にはショックを受けないように明確に言わないのかもしれないが、私はずっと病名を聞きたかった。働き始めて再発して、学生時代のカウンセラーさんの元を再度訪れた時、信用できたからこそ病名を聞いてみた。そこで「適応障害であったと思います。」と言われた。合っていたかは分からないが、言ってくれて嬉しかった。

しかしながら病名宣告については考えることがあるため、詳しくは⑤に記す。

 

②「うつ状態」との宣告時の気持ち

最初の医者での初診でさらっと言われた。言われた時は、うつ「状態」ってなんだ?と思ったけれど、とりあえずホットした。あーこれで専門家が私の不調を認めてくれた。私はやっぱり頑張りすぎていたんだ。バイトの無断欠勤も、授業に出れないのも、ちゃんと起きれないのも生活習慣が悪くなっているのも、仕方ないことなんだ。私は悪くないんだ。

私は自分が今までに起こさなかったような、周囲に対しての真摯でない態度に自己嫌悪、自己否定をしていたのだ。

 

③薬について

一般的な薬は一通り処方されたように思う。

抗鬱薬抗不安薬睡眠薬…全て飲んでいた。

劇的な効果が見えなかったので、何度も種類を変えて服用された。けれども最終的には、薬が効いた、と実感出来たことは1度もなかった。

薬の効果は本当に人それぞれなんだと思う。私の場合、病気の原因が、人の死などの大きな出来事であったり、過度な身体的負担…などではなく、家族や周囲との人間関係がメインであったので、薬を飲んだとしても人間関係が解決に至らない限り、何の解決にも至らないのだと思う。

現に、もうかれこれ薬は2年服用していないが、まだ病気は完治していない。寛解状態だ…と自分では思っている。「寛解」とは、再発の可能性はなくはないが、症状が治まっている状態のこと。因みに一般的なうつの治療では、通常、「休養を十分とり、無理しすぎず、きちんと抗うつ剤を服用することが大切。再発の恐れがあるので、症状が軽減しても、継続服用が必要」というアドバイスを受ける。これは完治を目指すのではなく、寛解を目指した治療である。しかしながらこれでは、再発という爆弾を抱えて、消極的な人生を送ることになる…とある本は語る。完治したと言えるのは、うつ病の根本を成す病前性格の部分に変化が起こり、完全に治癒した状態。その深さまで治療のアプローチができて、再発の心配がなくなるのだそうだ。

 

④周囲のサポート(これまでのカウンセリングの詳細)

私の場合の周囲のサポートは、大学に来ていた非常勤カウンセラーさんだけだったと思う。率直な思いを全て相談できる人は彼女だけだった。家族は根本原因なので論外…満を持して少し症状が安定した卒業前にうつのことを話したが、予想通り、頼りになるどころか、やはり頼りにならないのだな、と思い知った。

初めて関わったカウンセラーさんがこの人だったことは恵まれていたと思う。専門知識が豊富だとか、経験を積んでいるとか…きっとそういうすごいレベルの人ではないのだけど、ただただ相性が良かった。その人なら全部話せたのだ。そのような人は当時周囲にいなかったので、大変救われた。その人のお陰で私は入社日に向けて、多少は回復に向かうことができた。

しかし残念ながら、スクールカウンセラーであるので卒業したらそれで終わり、無料で通うことはできない。その人が大学の外でやっている所を紹介してもらった。新入社員にはなかなか厳しい金額であったので、とりあえず入社して様子を見ながら、もしまた何かあればいつでもどうぞ。ということに。「でも、本当ならこれでお会いしなくなり、私のことを忘れてしまうようになることが、1番良い回復している状態なのですよ。無理せずに頑張って下さいね。」と最後に言ってくれた。すごく背中を押された気分だった。私は頑張りたい、と思った。

 

その後、入社して2年目に入った頃、私はその人の元を再び訪れることとなる。再発したからだ。残念ながら激務と職場の人間関係により、入社3ヶ月ほどで産業医にかかることとなり、内部や外部のカウンセリングを受けたがなかなか合う人に巡り会えず、私はどうにかしたくて大学時代にお世話になっていた彼女の元を訪れた。当時頂いた支援団体の案内用紙は、もしもの時のお守りとして捨てられずにいたのだ。(訪れたときはすでに潰れて異動が決まった後だが…)

久々にお会いしたカウンセラーさんは以前と同じで話しやすかった。私は苗字が変わっていたので、ご挨拶と結婚の報告、そして入社してからの状況と、何故再びお会いしたのかの理由を告げた。90分のカウンセリングはあっという間に終わった。少し不便な場所にあり、金額も高かったが、いってらっしゃい、と快く送り出してくれた主人には感謝だ。

訪れた時期は2年目の5月。私の異動が決定した直後だ。私が話したのは、入社後は本当に仕事が楽しく必死で学びたいと頑張っていたこと。異性関係はしばらく変わらなかったが、会社では、期待もしてもらって自分でもたくさん勉強したこと。次第に指導者や同僚と合わなくなっていたこと。涙がとまらなくなったこと。それでも激務に耐えたこと。異性関係を自分でやめようと決心したこと。ある日会社に行けなくなったこと。異動希望を出したこと。そして、無事に異動させてもらえることになったこと。

一通り話して、上記したように、私の病名は一体なんだったのかと聞いた。「適応障害」………

「本当に頑張りすぎちゃったんですね。でも、異性関係もよくご自身でやめようと決心しましたね。そして、異動希望もよく勇気出して希望出しましたね。会社も対応してくれて、異動出来ることになり、本当に良かったと思います。きっと今より業務負担が軽くなって、少しは気持ちが休まると思いますよ。また異動してみて様子みてみて、何かあればまたいつでもお話しにいらしてくださいね。」と言ってくださった。すっきりした気持ちで、主人のいる家に帰宅した。

 

それ以来そのカウンセラーさんの元は訪れていない。異動後もそれなりにストレスは色々あったのだが、ありがたいことに家庭という居場所があったからか、カウンセリングを再び受けたい、とまではいかなかった。産業医への通院のみ継続していた。業務中に離席でき、多少は気分転換にもなったからだ。やはり、部署異動前後で席の移動がほぼなかったので、背後から聞こえる声は常にストレスであったことは確かだ。離席の度に誰かとすれ違わないか…とひやひやしていたくらいには、病状は治っていなかったのだ。

 

産業医は神経科医だった。私の入社1年目と2年目でちょうど産業医の人事異動があり、担当医が変わった。1人目の人は産業医経験が長く慣れていたのか会社の文化等にも精通していて、2人目よりは話しやすく、長時間診療時間もとってくれ、留学時のことも色々話した。でも多少決めつけ型で、良く言うと、診察中は話をリードしてもらえた。2人目の先生は1人目と真逆なタイプで、初めて産業医になる人であった。物腰柔らかく話しやすいかなーと思いきや、回数を重ねるほど、話しにくさが際立った。なにせ、ちゃんと5分10分で話をまとめて終わらせる。こちらが話したいことが全く話せなかった。毎回「様子を見ましょう」という感じで消化不良だった。1人目の人との引継ぎもちゃんと行われていない気がした。次第に私は診療所を予約した時間は、「罪悪感なく離席して休憩ができる時間」として割り切ることにした。産業医なので診療費は安いと言えども無料ではないし、主人や周囲に罪悪感も多少あったが、どうせ業務中もやることないし、いてもいなくても変わらないだろう…という自嘲気味な気持ちもあったかもしれない。気晴らしの1時間はとても有意義だったし、私の気持ちを楽にしてくれた。

上記のような感じで2人目の担当医とは相性が全く合わなかった。時々試しに悩み相談をしても、「それは客観的に見たら仕方ないことだと思いますよ、どのようになればよかったんですか」と、神経科医の言葉として耳を疑うようなことも言われ、不信感は募った。私は産休に入ると同時に、もう産業医は辞めることを決意した。

 

実は産休に入る直前に、新しく気の合うカウンセラーさんを見つけていたのだ。

産業医と合わない日々が続いた入社2年目の冬、無料の外部カウンセリングに訪れてみた。その人は大学院等で専門的な勉強をしてきた人ではなく、社会人経験があって資格を取って今の仕事に就いた人だった。なので、もうかれこれ数年病気を抱え、様々な関連書物を読んだり、元々深い思考型の私には、「教科書的なアドバイスだなー」と思う時も多々あったのが正直なところだ。しかしながら話し相手としては、良い気分転換にはなったと思う。この人でなく、次に述べる人が久々に気の合ったカウンセラーさんである。

しばらく間は空き、産休まであと数か月となる3年目の春、休暇前に再度自分と向き合いたいと思い、今度は専門的な勉強をしている人を選んでカウンセリングを訪れた。それが今の人だ。この人が久々に相性が良いと感じた人である。話しやすい感覚がある。それで改めて、産業医はもうきっぱりやめることを決心したのだ。

私のカウンセリング歴はこんなところである。 

 

⑤病名診断について

病名を適切に判断することは難しいと思う。だいたい、自分の症状を的確に医者に説明することがまず難しい。医者との信頼関係がなければ、医者にまで気をつかって本音で語れなくなる。病院選びも所詮、人間同士の出会いなので、ある意味運によるのかもしれない。例え医者と合わないなと感じていても、鬱病によりエネルギー皆無の時に、転院を考えて行動に移すことは、本人に頼る人がいない場合、非常に難しいことでもある。

そんなこんなで下される病名。不十分な症状の情報から適切に判断されずに下されたり、宣告することで本人の心的負担を増やさないために、わざと曖昧にされたりもするのだ。

今、比較的自分について客観的に考えられるようになり、様々な書物を読んで自分なりに考えた、自分を表す病名を3つに絞る。

①「社会不安障害」②「回避性パーソナリティ障害」③「鬱病」④HSP

 

①元々、社会不安障害気味なところがあり、人前で話したり、字を書いたり、電話したりすることは小学校の頃から苦手である。人から注目を浴びることは、例え褒める対象としてだとしても反応に困って苦手である。舞台で喋る時は声が震えていると言われたこともしばしば。何かとリーダーに選ばれてきたが、嫌すぎて人前で泣いて辞退したこともある。(結局翌年に再度選ばれ、覚悟を決めてやった)何度も経験することで多少は慣れてきているのかもしれないが、未だに電話など日常のことでも好きではなく、失敗して恥をかくことが不安である。

 

②他人の拒絶に対する過度の恐れ、引っ込み思案、劣等感を特徴とする「回避性人格障害(パーソナリティ障害)」は、社会不安障害の重症型とも考えられているようだ。

「社交不安障害」も「回避性人格障害」も原因ははっきりせず、遺伝や環境と言われている。遺伝的要因は、 元々なりやすい性格傾向をもって産まれてくること。環境的要因は、幼少期の家族関係などである。やはり私の場合は幼少期の環境や経験が大きそうだ。

以下は「回避性パーソナリティ障害」について、ある本を参照している。

回避性パーソナリティ障害の人は、家族からあら捜しをされたり、からかいを受けたりして、つねに否定的な評価を受けてきたようだ。本当は他者に受け入れられ愛されることを望んでいるが、否定的な評価や拒否を避けるという恐れのために、臆病にならざるを得ない。ただ、家族としては、積極的に甘えたり気持ちを言ってこないから、このタイプの人の気持ちに気づきにくい。このタイプの人は、ストレス耐性が低い。傷付くことに耐えられないため、心理的な負荷から逃れようとする。そんな思いをするなら最初から関わらない方がましだとなり、物事や人間関係から回避的になる。

回避という反応が起きるのは、否定的評価が、心的外傷(=自信喪失)と結びつくことを学習した結果である。心的外傷は無気力とともに過敏な状態を生み、ストレス耐性の低下をももたらす。

家族が「安全基地」としてうまく機能してこなかった影響は大きい。家族との関係は、本人が期待に応えようと努力し続けていた限りは上辺の平穏を保っていたが、躓いたことで一気にすれ違いが露呈した。表面の問題解決よりも、家族が本人目線で事態を見て、「安全基地」としての機能を取り戻せば事態の解決に繋がることが多い。しかしながら私の場合は、家族でなくカウンセラーという安全基地は存在したが、家族は私の不調に全く気付きもしなかったため、「家族=安全基地」となるのは夢のまた夢であった。

「安全基地機能にない家族」というのは、自分の感情を周囲にそのままぶつけることで自分自身を守っているような、未熟なパーソナリティの持ち主だ。私の場合、家族の感情のはけ口が私となってしまっていた。そのせいで私は、自分の気持ちを表現することを極力抑えることが習慣になった。

 

③そして「適応障害」と言われたのは、大学4年次に姉(おそらく境界性人格障害)から受けたストレスにうまく適応できずに体調不良を起こしていたが、そこでさらに無理に自立に向けて過度なアルバイトをして心身的負担を自ら増やしたからだと思われる。

そうして自分を大切にできなくなりどうにでもなれと異性関係に救いを求めたりして、さらに体調不良に。日常生活にも支障が出た。単なる適応障害であればストレス原因が明確なため、そのストレスを取り除けば体調は回復するが、私の場合、家族という離れられない関係であり、姉からの過剰妄想的な暴言から逃れられない状況であったので「鬱病」に移行してしまった。

その後、休養とカウンセリングのもとで一時寛解(症状が安定している状態)に向かっていたが、入社して指導者を始めとする職場の人間関係に振り回されるようになる。残業ばかりの激務も重なり心身疲労が蓄積。鬱病が再発した。

 

HSPとは、過敏性症候群のこと。元々神経が過敏で感受性が過剰に豊かである人々。以下のような特徴あり。

・人の言動に左右されやすい

・ミスへの恐怖が人一倍ある

・人混みで疲れやすい

・大人数の会議などで気後れして話せない

日本ではあまり知られていないが、海外では有名なHSP。生きづらさの原因がここにあることもあると、書物に書いてあった。自分にあてはまると思う。

 

現在は、異動による身体的負担の軽減、人間関係の負担軽減により、「一応寛解しているが、時々周囲からのキツイ言動などの人間関係のストレスから軽度の鬱症状が再発する」といった状況かと感じている。

解決法としては、カウンセラーによる認知行動療法を行っている。認知のクセを改善し、自己肯定感を高めてストレス耐性を高めることが目標だ。