子育て奮闘記②

1ヶ月〜2ヶ月

 

一ヶ月検診を終え、処方されたワセリンのおかげでお顔もかなり綺麗になりました。一時は本当に消えるのか心配でしたが良かった!

この一ヶ月でのともくんの成長は…

・手足の力が強くなる

・体重が4㌔から5㌔くらいに増える

・オムツ新生児用卒業

・少しむちむちしてきた

・あーうーと喃語が増える

・動く人を追視するようになる

・泣く時に涙がうるっとするようになる

・夜中に4-5時間寝てくれるときもある(お胸張りまくり→明け方の授乳で出が強くて吐きこぼしもすんごい)

・排便も1日1回まとまって、排尿は多い(排便の直前のあのお顔が見られなくなったのはちょっと寂しい)

・徐々に笑うようになる!(ただただ感動!可愛い!)

・歌いながら手足を動かすと楽しそうにする!

たくさんの嬉しい変化が見られて、日々成長を実感しています。

・そして、湯船デビューも果たしました。相変わらずお風呂は好きそうです。

・そしてそして、外出デビューも!ヒカリエではベビーカーに初乗りし、中目黒代官山にもいきました。新宿も六本木も。

やはり外に出ると、様々なところで声を掛けて頂ける!親としては嬉しい限りです…♡(笑)

バスで声を掛けて頂いたマダムは母親の身体も気遣ってくださり有難かったです。

週末の家族水入らずでのお出かけが毎週楽しみです。但し、授乳室探しは必須ですね。

そして、予防接種デビューも果たしました!

もちろん泣いたけど、案外すぐ泣き止んで、お利口さんともくん!外面良いのか?!(゚ロ゚)

赤ちゃん訪問も無事終えました。

日々の変化はどれをとっても今しか味わえない事ばかり。子育ては大変なことも多いけれど、幸せを感じることの多い日々です。成長ぶりを見逃したくないな~と思います。産後直後よりだいぶ余裕出てきたのかな…?

一時は母親が帰ったら大丈夫かなと不安でしたが、なんとかやっています( ˶ˆ꒳ˆ˵ )

そうそう、やっと、親なんだという実感が少し湧いてきたような…?今更(笑)

保育園について再調べしながら、こんな可愛い子預けたくない~と親バカ度合いも増していく毎日です。(笑)

 

奮闘記はまだまだ続く…

カウンセリング記録〜自分が望むこと知る~

産休入ってすぐのカウンセリング

 

・思いやりすぎることで生じる辛さ

人に優しすぎて、相手を思うばかり、自分のやりたいことが見えなくなっている。主張できなくなってきる。自分の望むこと、自分にとって望ましい距離感をもっと考えてみた方がいい。自分は嫌なのに、相手の期待通りの反応をしてしまったりする。

自分が本当には望まない行動をしていると、それがその場を丸く収めるための行為だとしても、その後の自分の心にわだかまりが残る。主張しないことは形式上、自分を傷つけていることを容認してしまうことだ。そうなると相手は何も気付いていなくても、自分だけに辛さや悔しさが残る。私が現在抱えている多くのトラウマも、そうしたことから生まれてしまったのかもしれない。未だにトラウマに苦しめられ続けている。

相手の期待に沿った、自分を傷付ける・自分を大切にしない選択を、どうしてもしてしまうのであれば、最初からその場面状況に出くわさないように、相手から逃げる・距離をとるということも必要になってくる。

 

・問題/辛さへの向き合い方

問題に対する向き合い方には2通りある。「きちんと向き合う」「逃げる」である。どちらも正解で、どちらにもメリットデメリットがある。前者のメリットら、混合似た状況に出くわしても対処できるようになること。デメリットは、辛いこと。後者のメリットは、辛さを感じなくて済むこと。デメリットは、根本的な解決に至らないこと。

「向き合う」と、「逃げる」という2つの選択肢は、相手によって、場面によって、使い分けができるのが一番理想的である。

使い分ける一つの手段として、「枠組み/境界線」を決めることが挙げられる。人によって、さらに同じ相手でも状況によって変えてしまって良い。

 

・人間関係で枠組み/境界線を設ける

 例えば、私は他人を思いやりすぎる傾向があるが、相手を思いやる回数を具体的に決めてみる。この人の言動にはいつも傷つけられているが、うまく距離感を保てない…という場合、「2回までは相手を助けるけど、3回目は助けない」と枠組みを決めてみる。自分の中だけで決めてもいいし、相手に言ってみても良いかもしれない。

はたまた、枠組み/境界線を最初に決めないで、ゆらゆら身を任せることも一つの手段である。

どちらにしても、その相手対して、その状況において、自分が本当に望んでいることを自分で理解しない限りは、枠組み/境界線を決めるか決めないかを決めることも難しい。相手に振り回されてしまう。

 

・自分の本当に望むこと知る

私は、自分だけのことなら猪突猛進になれるけど、自分の選択によって他人に影響を与えてしまうような場面であると、途端に他人をどうしても思いやってしまうようだ。

優しすぎるのは自分の良い面ではあるけれど、それによって自分が苦しまないように、自分に負の影響をもたらすものから意識的に遠ざっても良いのだ。

まずは、自分がその状況下で本当に望む状況を理解してあげないと、問題に対して向き合うか逃げるかを決めることもできないし、その人間関係においての枠組みを決めることもできない。

自分が本当に望んでいること・やりたいことを知るための日々はこれからも続く…

 

 

子育て奮闘記①

退院〜1カ月

 

黄疸や体重減少のため、ともくんだけ入院延長の可能性もあったけれど、なんとか無事に母子同日退院。ついに親子3人での自宅での生活が始まりました。

初めてのお着替えはファミリア!まだ少し大きかったね。お世話になった産院を出て、ドキドキわくわくしながらタクシーで帰宅し、ともくん初めてのお家〜!ここが、これからパパとママと、ともくんと、3人で過ごすお家だよ。

 

そこからの毎日はとても大変でした。最初の1週間はパパ、次の週は義母、それ以降は実母が休暇をとってくれました。

産院は母子別室で、夜中も休みたければ休むことができたので、退院して、初めてずーっと赤ちゃんと一緒にいる生活でした。今思うと…入院中はなんて楽だったのだろう…笑 2,3時間おきに授乳室行けばいいし、その前に泣けば呼んでくれるし、授乳中にミルク用意してもらえるし、ベビー服やシーツの替え大量にあるから汚したい放題だし、呼吸止まったらブザー鳴るから心配しなくていいし、まずよく寝てくれるし…。

今では、自分が寝るタイミングが掴めないのはもちろん、徐々に原因不明のギャン泣きLevel5が増えてきて、パパもママも、しばしばお手上げ状態です。産後鬱ってこういうことかしら…と思うこともありました。産まれた瞬間、あんなに愛らしく感じた我が子でも、早速、思わず声を荒げてしまうことがあるのですね。子育てってほんと大変〜!産前は、泣いてたらすぐ駆けつけよう!放ったらかしにしないもん!と心に誓っていたけれど、今じゃ…笑

泣きすぎて声が枯れ枯れになるときは、ちょっと申し訳ない気持ちになりつつも、頭のもう半分は、よっしゃこれで泣き声静まった…とも。天使と悪魔が頭の上で言い争っているよくあるあの光景です。笑

1カ月、そして3ヶ月が過ぎると大分落ち着くと信じて、その時々に余裕がある方が面倒を見るしかないんだなと感じました。2人とも同時にバタンキューしたらどうしましょ!やっぱり頑張りすぎないのが一番。完璧を求めない。家事も育児も。ついでに仕事も(笑)。毎日、パパも自分も赤ちゃんも生きていればオッケー!くらいでやっていかないとね。

最近は乳児湿疹が酷くなったり、母乳とミルクの配分など心配な部分もあるけれど、束の間のすやすや可愛いお顔に励まされながら、1日1日過ごしています。泣き声も徐々に慣れてきました。あと、赤ちゃんの成長の早さには驚きました。力が強くなるのはやめてほしいけど(笑)あとあと、母親の有り難みを久々に感じました(笑)子育てには人手って必要だ…時々パパとのデートの時間を与えてくれるのも嬉しいです。

 

毎日毎日が同じ戦い(泣いてお乳差し出してミルク作ってオムツ替えてあやして寝かしての繰り返し)ってのは今までにはない種類の大変さですね。この辛さは職場での激務時代&暇過ぎ時代に勝るかもしれない。人生で1回は育児を経験して良かったかもです。経験してない人にはきっと分からない大変さです。きっと、ともくんが巣立つ頃には、これまた経験しないと分からない『子育ての幸福感』も味わっていることと思います。あと20年くらいでしょうか?長!(笑)

これからどんなことがMy Familyに訪れるのか…楽しみでもあり、不安でもあり…パパとなんとかしてやっていこう、と誓う今日なのでした。

モンスターともくんとの奮闘記は続く…

入院中

空気を読みまくって日曜朝に生まれてきたともくん。出産した日、パパはお休みだったのでずっと病院にいてくれた。2人とも疲労で、私のベッドで一緒に寝たのが懐かしい。産院では、パパの面会時間が夜30分のみなので、夜に会えるのを楽しみにしていたが、最初に私達が面会したときは、ともくんはなんと保育器の中にいた。出血多量の影響で、呼吸が早いとのこと。酸素濃度を高めに設定された保育器の中にいた。触れることはできたので、さらさらぷにょぷにょの頬に触れた。赤ちゃんの肌って本当に気持ちいい。パパはともくん大丈夫かな…ととても心配そうだった。

この産院では、産後0日の赤ちゃんだけ黄色いニット帽を被っている。可愛い。明日には保育器の外で会おうね、抱っこさせてね、と心の中で伝えつつ、その日の夜は更けた。保育器にいることもあり、授乳は翌日からとなっていたのでその日はたっぷり寝た。流石に身体の疲労が溜まりすぎて、かなり寝ても、まだ寝足りなかったけどね。

会陰切開3㎝は、やはりくっつくまで痛い。座れない。切るときは陣痛でそれどころじゃない。陣痛はもうとんでもない。本気で死にそうで死ぬ死ぬと叫んだ。後陣痛はそこまでではなかったから助かった。しかし何日目かの内診でグリグリやられすぎて、出血多量が再び。私は悪阻が酷いタイプのようだ。

 

パパは日曜から1週間の入院期間で、月水金土日と面会に来てくれた。でもなかなかパパの面会のタイミングでともくんは保育器から出られなかった。ちょうどパパが来ない日に出れたりした(笑)。ともくんは保育器を出たり入ったりしていたのだ。出血多量の影響は色々なところに出ていた。呼吸が落ち着いたと思ったら、黄疸の数値急上昇。最後には体重減少。ともくんのみ入院延長の可能性もある程だった。そうそう、黄疸の光線治療のブルーライトともくんの半ケツは可愛かった(笑)あと、蝉ちゃんともくんも可愛い(笑)

 

初めての授乳のとき、助産師さんが乳首をゴリゴリやってくれた。そしたら少し母乳が出てきた。ビックリ!出産した途端に、刺激すると出るようになるんだって!女性の体ってすごし。ともくんがパクパクしてガシッと噛んだ。う…と最初きたけど、だんだん慣れてきた。自分のおっぱいを飲まれるのは、なんだか不思議な光景だ。これが母になったということなんだなぁ。ミルクも加えつつ、退院間近には、完母でイケるかもと言われるほどだった!わーい!ミルクもやる予定だけどなんだか嬉しい。

 

入院中は、生まれた順番に並べられる。最初は一番後輩ちゃんだったともくんも、最後には一番先輩になっていた。当たり前だけど、1週間の差だけど、なんだか大変感慨深かったな。新生児は1週間でも顔が変わる!生まれた直後のお顔からもだいぶ変わった。これからの変化が実に楽しみである。

ともくん…どちらに似るのかな?( ˶ˆ꒳ˆ˵ )

 

家族が増えた!

7月3日。息子が誕生した。

真夜中0時00分、深い眠りについてすぐ、大量の血を噴き出して破水。パチンと何かが弾けた感覚で、思わず叫んで飛び起きた。同時にパパも飛び起きた。直後に本陣痛が来て、病院へ。即入院となり、そこからのパパと2人きりでの9時間の末、パパとママは、息子に初めて対面したのだ。

9時13分。体重3194g。身長48㎝。パパは一番に息子を抱き、感動の涙を流した。

ママは痛みからの解放感だったが、パパが息子を抱くその幸せそうな素敵な顔を見て、息子が無事に私達の前に出てきてくれたことに、ただただ感謝した。

子宮口6cmくらいからの6時間が辛かった…初産の平均時間よりかなり短いが、時間と疲労は比例しない…パパもずーっとさすってくれて、ママと同じくらい大変だったと思う。パパがパパで本当に良かった。明け方4時くらいに、お互い疲労困憊でイライラしてたのは、今では良い思い出(笑)。出産直後に、こりゃ2人目は無理だね~、と話したのも今じゃ笑い話だ。

 

出産は、思いもかけず難産という括りだったようだ。パパには一生つっこまれそうだ(笑)。出産途中で胎盤の早期剥離が起こり、出血多量で最後は無理矢理ともを取り出したとのこと。早期剥離は母子共に危険を伴うものだったと後でわかった時は、出産って本当に奇跡で命懸けなんだと思った。

当時、血嫌いなパパが懸命に撮ってくれたビデオを見ると、産まれたばかりのともくんは本当に血だらけでびっくりする。何度も言うが、出産は本当に奇跡だ。血だらけなのにちゃんと心臓は動いてて、大声で泣いていて、ちゃんと目があって鼻があって口があって、人の形をしているのだ。こんな生物が私のお腹の中で…母子手帳をもらった2015年11月10日には   【黒い点】だったともくんが、10ヶ月でこんな1人前の人間に成長していて、パパとママの前に現れた。

出産を超える奇跡ってこの世の中にはないんじゃないのかな、と思う程だ。

これまた何度も何度も言うけれど、ともが生まれたばかりの時の、パパがともを見る顔は本当に素敵だった。記録に残しておいて良かった。いつか、ともくんに見せよう。あなたはこんななに愛されて生まれてきたんだよって。ともくん産んで良かったな。ああ、この人は、きっといいパパになるよ。ともくんはきっと幸せになるよ、と思った。

 

こうして、My Familyに愛らしい家族が1人増えたのだ。

数か月ぶりに姉と会う

姉の誘いにようやくのってあげた。

2時間ぐらい話した。

 

多少気晴らしにはなったかね。けど為になったなーとか、勉強になったなーとか、友人と会うと思うようなことは特に何もなかったかな。世間話とか噂話とか、妊娠子育て関連の質問攻めとか、向こうが話したいこと聞いてるとか…。そんなこんなで終わった。所々で突っ込みたいところあったけど、私は基本適当に相槌打っているだけだった。なんだかもはや自分の意見を言う気にもならない。顔を見るのもなんか嫌だったから少し後ろの方ぼーっと見ながら相槌してた(笑)。昔(半年前くらいまで)はもっと明るく感情的に話していた覚えがあるけれど、今やちょっと変わってきていたことを自覚した。悩みは基本同じだし、人の事を笑いものにしたりする癖を家族や彼氏から注意してもらってるのに、笑いながらその話してるし…。呆れてもう注意をする気もわかないよ。「人は言われているうちが花だね」っていうのをしみじみ感じましたとさ。

 

私が今日直接言うのを我慢していたことをここに書き連ねようかな、少し発散できたらな、と思って。

 

さっさと入籍すればいいのに。

これは今日もタイミング見ながら、うっとうしくない程度に何度も本人にも言ったけれど、入籍日を決めるより、職場の誰に報告するか…とかいうのを考えるのが先らしい。「やっぱり前職場には言わないことにした」とか、そんないつもと同じようなことをまた言っていた。彼氏には付き合って一年記念日にしようと言われたらしいけど、それは終戦記念日で嫌らしい。来たる自分の誕生日はお日柄が悪くて嫌らしい。彼氏は有難いことに、両家顔合わせ以降、気持ちにケジメがついて、早く入籍しようと意欲的に言ってくれているらしいのに、本人は妙にだらだらして焦る気持ちもない。それよりも、「私は無痛分娩で出産するんだ」とか、そんなことばかり未だに言っていて、もうすぐ31にもなるのに本当に救いようもない……いっそ愛想つかされてしまえ。

 

両家顔合わせの日は、父はいつも通り空気が読めなかったようだが、母は意外にも超完璧だったようだ。菓子折り選びにも、何種類ものお菓子を食べ比べて選んだようだ。母、娘が嫁ぐことができる最後のチャンスかもしれないから、頑張ったんだろうなぁ…

それなのに、先方のお母様が母を気遣って「こんな美味しそうなお菓子、よろしければ持ち帰っても良いですか」といった時、姉は無礼だと思ったらしい…とほほ。相手の気遣いに気が付かないんだね。母の努力に心から感謝をしていれば気づくだろうに…。見送りまで母は色々気遣いを頑張ったようだ。姉は一時期よく私に「親孝行したらどうなの」と言ってきたが、それを言うなら自分もさっさと入籍だけはすれば良いのに…可哀想な母。

 

姉が以前、「自分はアスペルガーに違いない、そして父から遺伝したのだ」と言っていたが、その後色々調べたところ、「やっぱり私アスペルガーではないみたい、安心安心~」と言っていた。はぁ、そうですか。良かったですね。多分境界性人格障害だと思うよ、と言おうか迷ったけど、また面倒なことになりそうなので言うの辞めた。それと、姉が帰省時に母と2人のときに、「父はアスペに違いないよね~」という話を再度したそうだ。そうしたら母が珍しく激怒したそうだ。「障害を持った人のことをそんな容易く言ってはならない!それに、私はそういう人と結婚した覚えはない!」と。そんな風に言われた~という話を彼氏に言ったら、「あなたは人が傷つく言葉を簡単に言うことがある」と言われたらしい。…という話を笑いながら私に話してきた。この人は以前も親友に同じことを言われた、という話を笑いながら私に話してきたことがある。それも覚えていないのだろうか。まったく…言われなくなったら終わりですよ。因みに、私は既にあなたにそういう忠告をしなくなってきていますよ。。。いつになったら本人は気付くんですかね。周囲から人がいなくなったときにやっと気付いて泣きついてくるんですかね。私は泣きつかれないようにしなきゃなぁ…。身近で大切な人ほど大切にしなきゃ、罰が当たるよ。

 

2歳下のいとこが私と同時期に結婚したが、叔母が子供がまだできないことを心配してるらしい。おいおい、早すぎるわ。だいたいまだ本人23だし、旦那さんも30なったばかりでしょ。つい先日いとこに東京で会ったことは、面倒くさくなりそうなので話さないでおいた。そんな風に叔母が焦っているのに、姉は私の全身の写メを叔母に送ろうとしていた。はぁ…そんなことするから叔母は焦ってしまうんだよ。そのくらい考えられないかね。いとこにもそういう実母からのプレッシャーが来たら気の毒だと思わないのかね、ということで、「さすがに可哀想だからやめておいたら」と写メは取らせなかった。

 

あとは相変わらず人の外見に関して全く配慮がない。「肌が荒れてるね~やっぱりホルモンバランスが崩れるのかね」「全体のバランス見るとおなかだけすごいね」「相変わらず姿勢ひどいね」なんだかな。この人にこういうことを言われると苛々するのはなんででしょう。おなかやたら触られるし。不愉快だけどはっきり言うと悪いから、「今動いてないよ」って言ってなんとかやめさせようとした。人に気を使うということを知らないのだろうか。身近な人ほど気を使うべきなんじゃないですかねあなたは。妊婦はホルモンバランスが崩れやすくて、それでもお肌に気を使ってなんとかマシになってきたところだったんですよ、実は。

 

そうそうあとは、「また彼氏に愛想つかされないようにね」と言ったら、「なんてこと言うの~ひどい」と言うから、以前愛想つかされていた話を言ったら、「そうか、そんなこともあったか」と言っていた。この人は本当に少し前の話を覚えていないんだな。というか、重要視していないんだな。どうでもいい職場のことは延々と気にしているくせに、身近な人との関係での出来事とか、すぐに忘れるんだな。相手が重要視していそうな出来事も、自分にとっては喉元過ぎれば熱さを忘れる、みたいな。相手の立場で物事をとらえることが本当にできない人間なんだなぁ。同じ人から産まれたのにびっくりだわ。ある意味いい性格ですねぇ。全く褒めてないけど(笑)

 

英語学習についても話した。以前に本人が「私これやるから!買った単語帳全然できてないから、私はおしりペンペンされないとだめなんだわ!」って幼稚なこと言って

いた10万以上もするスクールは、結局やらないことにしたそうだ。「あれね~やめたやめた~」って。…やっぱりね。どうせそうなると思っていましたよ。ネットで口コミを調べたら、社長が数年前に変わってから評判が悪かったらしい。それでやめたとか。それから英語関係は何も手をつけてないらしい。…。この人は本当に、熱しやすく冷めやすいというか、熱する前に冷めやすいというか。たいてい公言して終わるなぁ。有言有言無実行。もう公言を聞くのもうんざり、耳障りなので言わないで下さいよ。だからあまり反応しなくなったのかもな。無関心でトーン変えずに適当な相槌で十分。どうせまたやらないんでしょ、という気持ちで聞いてしまうのも、相手には申し訳ないですが、何十回も繰り返しやられたら無理はないですよね。終いには、「今親戚で一番英語話せるのは今海外言っているいとこだろうね」って。目の前の人に多少なりとも気を使うという概念はないのかね。英語を何故そこまでやりたいのか以前聞いたら、「観光に携わりたい」と言っていた。あれあれ、あの時の気持ちはどうなったのかね。…にもかかわらず、姉と同じ職場の私の友人にまた会いたいと言っていた。「エリートコースの人に会わなくちゃ」だって。…そうですか。一時期は、「仕事はぼちぼちで、昇進しなくて良いから子育てと両立してる先輩みたいになりたい~」って言ってましたよね。覚えてないでしょうけど…。姉と友人の3人で会うの嫌だから2人で会ってほしいけど、私の親友に相手をしてもらうのは大変申し訳ないからな。…まったく世話の焼ける人だな。私は焼きたくないわ。

 

英語ついでに。以前腹が立ったから、「前に、出産という大仕事終えたら英語でも勉強したら~って言ってたけど、産んでからが本番だからね。何言ってんのと思ったわ~」と言ったら、「え~だって私の友達は育休中は資格ばっかとってたよ~」と。なんだかなあ。人と比べて相手にモノ申すことができる身分かいな。身分とかどうでも良いけど、その子は実家だけど私は実家を頼れないし頼りにならないし。あんたも頼りにならないしな!あの人の頭には、誰かと比較する概念しかないんだね。教養が全く感じられない。それに、自分は結婚もしてないし子供もいなくて定時上がりで頻繁に休めるほど暇なくせに、資格どころかまともに英語学習にも向き合えないくせに、よく自分を棚に上げて私に資格取得勧められるわ。その神経が理解不能。何度も何度もくどいほど言ってやるけど、よくそれで31年生きてこれたわ。どれだけ周りの人に迷惑をかけてきたのやら。気付けよバカヤロウ。

 

なんだろう…今日の2時間は、私の中で全く気持ちが高揚しなかった。人と会っているのにここまで感情の起伏が変わらず、声のトーンも低いままなのは、なかなかなかったと思う。意識的に距離感を取っていたことが大きいのだと思う。それに、やっぱり何十年も付き合ってきて、もはや反応したりアドバイスしたりすることが面倒臭くなってきた。だって無意味だもの。本当に相手の事を考えて言ったとしても、本人は何度同じアドバイスを身近な人から受けたとしても、参考にする気がないのだ。ただただ話を聞いてほしいタイプの人もいるから仕方ないと思うんだけど、あまりにもそれだと、もはやこちらは話をする気にならない。真摯に聞く気にもならないし、こちらの話もまともに聞いてもらえないから、話をする気にもならないのだ。この人は昔から話題が豊富でしゃべるのが得意だと思っていたけれど、まぁ親戚の集まりだとか、会う頻度が少なかったり特別深い関わりでない大人数の場所での話すのは得意なのかもしれないけれど…なんというか。じっくり話したい相手ではない。深く付き合いたい相手ではないな。今回のように、数か月に一度会うだけで十分すぎるくらいだ。「相変わらず何話しても冷たい反応だし、彼氏のこともいつも否定的だね~」と言われたけれど、否定も肯定もしていない。興味がないのだから仕方がない。彼氏も転職活動したりしなかったり、ブレブレでよくわからないし。だいいち姉と結婚したいという気持ちが一生かけても理解できないだろう(笑)「相変わらず」と言われたので、姉からすると私は以前から冷たかったのかもしれないけれど、私自身の中で、今回は明らかに以前までとは何か心持ちが違った実感がある。そう、完全に2人の間に線を引きました。少しは成長できたのかな?今回会ったことで、それが分かったことは良かったと思う。自分のカウンセリングの努力の現段階での成果が確認できました。めでたしめでたし^^

 

ってか、私が冷たいって……そりゃ私が素を出せていたらあり得ない話だわ(笑)私は身近な人誰が見ても「冷たい」とは真逆の人間だ。妹が大大大好きなのに、これほどまでに妹と距離をとられている姉を少し同情してしまう(笑)

 

これまでの治療/4つの病名について

丸岡さんの著書を読んだ。

とても読みやすかった。

彼女のうつの治療のポイントとして、

・うつを受け入れる

・薬をきちんと飲む

・自然と触れる

・周囲の理解とサポート

などが書かれていたけれど、

私の場合は、「うつ」は最初から受け入れていたし、病気に対して恥の気持ちは全くなかった。そのため薬も医者に言われる通りしっかり服用していた。効果を実感したことは結局なかったが。周囲の理解とサポートはほぼなかった。唯一カウンセラーさんだけだ。身近な人からのサポートはなかった。詳しくは下記に述べる。

 

①病名宣告について

きちんと病名を聞いたことはない。「うつ状態」ですね、と最初の医者に言われただけだった。

うつの人にはショックを受けないように明確に言わないのかもしれないが、私はずっと病名を聞きたかった。働き始めて再発して、学生時代のカウンセラーさんの元を再度訪れた時、信用できたからこそ病名を聞いてみた。そこで「適応障害であったと思います。」と言われた。合っていたかは分からないが、言ってくれて嬉しかった。

しかしながら病名宣告については考えることがあるため、詳しくは⑤に記す。

 

②「うつ状態」との宣告時の気持ち

最初の医者での初診でさらっと言われた。言われた時は、うつ「状態」ってなんだ?と思ったけれど、とりあえずホットした。あーこれで専門家が私の不調を認めてくれた。私はやっぱり頑張りすぎていたんだ。バイトの無断欠勤も、授業に出れないのも、ちゃんと起きれないのも生活習慣が悪くなっているのも、仕方ないことなんだ。私は悪くないんだ。

私は自分が今までに起こさなかったような、周囲に対しての真摯でない態度に自己嫌悪、自己否定をしていたのだ。

 

③薬について

一般的な薬は一通り処方されたように思う。

抗鬱薬抗不安薬睡眠薬…全て飲んでいた。

劇的な効果が見えなかったので、何度も種類を変えて服用された。けれども最終的には、薬が効いた、と実感出来たことは1度もなかった。

薬の効果は本当に人それぞれなんだと思う。私の場合、病気の原因が、人の死などの大きな出来事であったり、過度な身体的負担…などではなく、家族や周囲との人間関係がメインであったので、薬を飲んだとしても人間関係が解決に至らない限り、何の解決にも至らないのだと思う。

現に、もうかれこれ薬は2年服用していないが、まだ病気は完治していない。寛解状態だ…と自分では思っている。「寛解」とは、再発の可能性はなくはないが、症状が治まっている状態のこと。因みに一般的なうつの治療では、通常、「休養を十分とり、無理しすぎず、きちんと抗うつ剤を服用することが大切。再発の恐れがあるので、症状が軽減しても、継続服用が必要」というアドバイスを受ける。これは完治を目指すのではなく、寛解を目指した治療である。しかしながらこれでは、再発という爆弾を抱えて、消極的な人生を送ることになる…とある本は語る。完治したと言えるのは、うつ病の根本を成す病前性格の部分に変化が起こり、完全に治癒した状態。その深さまで治療のアプローチができて、再発の心配がなくなるのだそうだ。

 

④周囲のサポート(これまでのカウンセリングの詳細)

私の場合の周囲のサポートは、大学に来ていた非常勤カウンセラーさんだけだったと思う。率直な思いを全て相談できる人は彼女だけだった。家族は根本原因なので論外…満を持して少し症状が安定した卒業前にうつのことを話したが、予想通り、頼りになるどころか、やはり頼りにならないのだな、と思い知った。

初めて関わったカウンセラーさんがこの人だったことは恵まれていたと思う。専門知識が豊富だとか、経験を積んでいるとか…きっとそういうすごいレベルの人ではないのだけど、ただただ相性が良かった。その人なら全部話せたのだ。そのような人は当時周囲にいなかったので、大変救われた。その人のお陰で私は入社日に向けて、多少は回復に向かうことができた。

しかし残念ながら、スクールカウンセラーであるので卒業したらそれで終わり、無料で通うことはできない。その人が大学の外でやっている所を紹介してもらった。新入社員にはなかなか厳しい金額であったので、とりあえず入社して様子を見ながら、もしまた何かあればいつでもどうぞ。ということに。「でも、本当ならこれでお会いしなくなり、私のことを忘れてしまうようになることが、1番良い回復している状態なのですよ。無理せずに頑張って下さいね。」と最後に言ってくれた。すごく背中を押された気分だった。私は頑張りたい、と思った。

 

その後、入社して2年目に入った頃、私はその人の元を再び訪れることとなる。再発したからだ。残念ながら激務と職場の人間関係により、入社3ヶ月ほどで産業医にかかることとなり、内部や外部のカウンセリングを受けたがなかなか合う人に巡り会えず、私はどうにかしたくて大学時代にお世話になっていた彼女の元を訪れた。当時頂いた支援団体の案内用紙は、もしもの時のお守りとして捨てられずにいたのだ。(訪れたときはすでに潰れて異動が決まった後だが…)

久々にお会いしたカウンセラーさんは以前と同じで話しやすかった。私は苗字が変わっていたので、ご挨拶と結婚の報告、そして入社してからの状況と、何故再びお会いしたのかの理由を告げた。90分のカウンセリングはあっという間に終わった。少し不便な場所にあり、金額も高かったが、いってらっしゃい、と快く送り出してくれた主人には感謝だ。

訪れた時期は2年目の5月。私の異動が決定した直後だ。私が話したのは、入社後は本当に仕事が楽しく必死で学びたいと頑張っていたこと。異性関係はしばらく変わらなかったが、会社では、期待もしてもらって自分でもたくさん勉強したこと。次第に指導者や同僚と合わなくなっていたこと。涙がとまらなくなったこと。それでも激務に耐えたこと。異性関係を自分でやめようと決心したこと。ある日会社に行けなくなったこと。異動希望を出したこと。そして、無事に異動させてもらえることになったこと。

一通り話して、上記したように、私の病名は一体なんだったのかと聞いた。「適応障害」………

「本当に頑張りすぎちゃったんですね。でも、異性関係もよくご自身でやめようと決心しましたね。そして、異動希望もよく勇気出して希望出しましたね。会社も対応してくれて、異動出来ることになり、本当に良かったと思います。きっと今より業務負担が軽くなって、少しは気持ちが休まると思いますよ。また異動してみて様子みてみて、何かあればまたいつでもお話しにいらしてくださいね。」と言ってくださった。すっきりした気持ちで、主人のいる家に帰宅した。

 

それ以来そのカウンセラーさんの元は訪れていない。異動後もそれなりにストレスは色々あったのだが、ありがたいことに家庭という居場所があったからか、カウンセリングを再び受けたい、とまではいかなかった。産業医への通院のみ継続していた。業務中に離席でき、多少は気分転換にもなったからだ。やはり、部署異動前後で席の移動がほぼなかったので、背後から聞こえる声は常にストレスであったことは確かだ。離席の度に誰かとすれ違わないか…とひやひやしていたくらいには、病状は治っていなかったのだ。

 

産業医は神経科医だった。私の入社1年目と2年目でちょうど産業医の人事異動があり、担当医が変わった。1人目の人は産業医経験が長く慣れていたのか会社の文化等にも精通していて、2人目よりは話しやすく、長時間診療時間もとってくれ、留学時のことも色々話した。でも多少決めつけ型で、良く言うと、診察中は話をリードしてもらえた。2人目の先生は1人目と真逆なタイプで、初めて産業医になる人であった。物腰柔らかく話しやすいかなーと思いきや、回数を重ねるほど、話しにくさが際立った。なにせ、ちゃんと5分10分で話をまとめて終わらせる。こちらが話したいことが全く話せなかった。毎回「様子を見ましょう」という感じで消化不良だった。1人目の人との引継ぎもちゃんと行われていない気がした。次第に私は診療所を予約した時間は、「罪悪感なく離席して休憩ができる時間」として割り切ることにした。産業医なので診療費は安いと言えども無料ではないし、主人や周囲に罪悪感も多少あったが、どうせ業務中もやることないし、いてもいなくても変わらないだろう…という自嘲気味な気持ちもあったかもしれない。気晴らしの1時間はとても有意義だったし、私の気持ちを楽にしてくれた。

上記のような感じで2人目の担当医とは相性が全く合わなかった。時々試しに悩み相談をしても、「それは客観的に見たら仕方ないことだと思いますよ、どのようになればよかったんですか」と、神経科医の言葉として耳を疑うようなことも言われ、不信感は募った。私は産休に入ると同時に、もう産業医は辞めることを決意した。

 

実は産休に入る直前に、新しく気の合うカウンセラーさんを見つけていたのだ。

産業医と合わない日々が続いた入社2年目の冬、無料の外部カウンセリングに訪れてみた。その人は大学院等で専門的な勉強をしてきた人ではなく、社会人経験があって資格を取って今の仕事に就いた人だった。なので、もうかれこれ数年病気を抱え、様々な関連書物を読んだり、元々深い思考型の私には、「教科書的なアドバイスだなー」と思う時も多々あったのが正直なところだ。しかしながら話し相手としては、良い気分転換にはなったと思う。この人でなく、次に述べる人が久々に気の合ったカウンセラーさんである。

しばらく間は空き、産休まであと数か月となる3年目の春、休暇前に再度自分と向き合いたいと思い、今度は専門的な勉強をしている人を選んでカウンセリングを訪れた。それが今の人だ。この人が久々に相性が良いと感じた人である。話しやすい感覚がある。それで改めて、産業医はもうきっぱりやめることを決心したのだ。

私のカウンセリング歴はこんなところである。 

 

⑤病名診断について

病名を適切に判断することは難しいと思う。だいたい、自分の症状を的確に医者に説明することがまず難しい。医者との信頼関係がなければ、医者にまで気をつかって本音で語れなくなる。病院選びも所詮、人間同士の出会いなので、ある意味運によるのかもしれない。例え医者と合わないなと感じていても、鬱病によりエネルギー皆無の時に、転院を考えて行動に移すことは、本人に頼る人がいない場合、非常に難しいことでもある。

そんなこんなで下される病名。不十分な症状の情報から適切に判断されずに下されたり、宣告することで本人の心的負担を増やさないために、わざと曖昧にされたりもするのだ。

今、比較的自分について客観的に考えられるようになり、様々な書物を読んで自分なりに考えた、自分を表す病名を3つに絞る。

①「社会不安障害」②「回避性パーソナリティ障害」③「鬱病」④HSP

 

①元々、社会不安障害気味なところがあり、人前で話したり、字を書いたり、電話したりすることは小学校の頃から苦手である。人から注目を浴びることは、例え褒める対象としてだとしても反応に困って苦手である。舞台で喋る時は声が震えていると言われたこともしばしば。何かとリーダーに選ばれてきたが、嫌すぎて人前で泣いて辞退したこともある。(結局翌年に再度選ばれ、覚悟を決めてやった)何度も経験することで多少は慣れてきているのかもしれないが、未だに電話など日常のことでも好きではなく、失敗して恥をかくことが不安である。

 

②他人の拒絶に対する過度の恐れ、引っ込み思案、劣等感を特徴とする「回避性人格障害(パーソナリティ障害)」は、社会不安障害の重症型とも考えられているようだ。

「社交不安障害」も「回避性人格障害」も原因ははっきりせず、遺伝や環境と言われている。遺伝的要因は、 元々なりやすい性格傾向をもって産まれてくること。環境的要因は、幼少期の家族関係などである。やはり私の場合は幼少期の環境や経験が大きそうだ。

以下は「回避性パーソナリティ障害」について、ある本を参照している。

回避性パーソナリティ障害の人は、家族からあら捜しをされたり、からかいを受けたりして、つねに否定的な評価を受けてきたようだ。本当は他者に受け入れられ愛されることを望んでいるが、否定的な評価や拒否を避けるという恐れのために、臆病にならざるを得ない。ただ、家族としては、積極的に甘えたり気持ちを言ってこないから、このタイプの人の気持ちに気づきにくい。このタイプの人は、ストレス耐性が低い。傷付くことに耐えられないため、心理的な負荷から逃れようとする。そんな思いをするなら最初から関わらない方がましだとなり、物事や人間関係から回避的になる。

回避という反応が起きるのは、否定的評価が、心的外傷(=自信喪失)と結びつくことを学習した結果である。心的外傷は無気力とともに過敏な状態を生み、ストレス耐性の低下をももたらす。

家族が「安全基地」としてうまく機能してこなかった影響は大きい。家族との関係は、本人が期待に応えようと努力し続けていた限りは上辺の平穏を保っていたが、躓いたことで一気にすれ違いが露呈した。表面の問題解決よりも、家族が本人目線で事態を見て、「安全基地」としての機能を取り戻せば事態の解決に繋がることが多い。しかしながら私の場合は、家族でなくカウンセラーという安全基地は存在したが、家族は私の不調に全く気付きもしなかったため、「家族=安全基地」となるのは夢のまた夢であった。

「安全基地機能にない家族」というのは、自分の感情を周囲にそのままぶつけることで自分自身を守っているような、未熟なパーソナリティの持ち主だ。私の場合、家族の感情のはけ口が私となってしまっていた。そのせいで私は、自分の気持ちを表現することを極力抑えることが習慣になった。

 

③そして「適応障害」と言われたのは、大学4年次に姉(おそらく境界性人格障害)から受けたストレスにうまく適応できずに体調不良を起こしていたが、そこでさらに無理に自立に向けて過度なアルバイトをして心身的負担を自ら増やしたからだと思われる。

そうして自分を大切にできなくなりどうにでもなれと異性関係に救いを求めたりして、さらに体調不良に。日常生活にも支障が出た。単なる適応障害であればストレス原因が明確なため、そのストレスを取り除けば体調は回復するが、私の場合、家族という離れられない関係であり、姉からの過剰妄想的な暴言から逃れられない状況であったので「鬱病」に移行してしまった。

その後、休養とカウンセリングのもとで一時寛解(症状が安定している状態)に向かっていたが、入社して指導者を始めとする職場の人間関係に振り回されるようになる。残業ばかりの激務も重なり心身疲労が蓄積。鬱病が再発した。

 

HSPとは、過敏性症候群のこと。元々神経が過敏で感受性が過剰に豊かである人々。以下のような特徴あり。

・人の言動に左右されやすい

・ミスへの恐怖が人一倍ある

・人混みで疲れやすい

・大人数の会議などで気後れして話せない

日本ではあまり知られていないが、海外では有名なHSP。生きづらさの原因がここにあることもあると、書物に書いてあった。自分にあてはまると思う。

 

現在は、異動による身体的負担の軽減、人間関係の負担軽減により、「一応寛解しているが、時々周囲からのキツイ言動などの人間関係のストレスから軽度の鬱症状が再発する」といった状況かと感じている。

解決法としては、カウンセラーによる認知行動療法を行っている。認知のクセを改善し、自己肯定感を高めてストレス耐性を高めることが目標だ。